2009/12/10

シュタイナー












アメリカに留学していたという予備校の学生からノートを借りた。
その学校はシュタイナー教育の学校だったらしく、個人的に興味があったので話を聞くうちに
「じゃあノートみせて」、という流れで。

板書をノートに写すのではなくて、まず教科書を自分で作るらしい。
宿題はでなかったが、次の授業までに枠を描いてきなさい、ということはあるらしい。
その枠の描きかたやパステルの使い方にもクラスのなかで流行があって、ひとりが新しいこと
をやり始めると、みんなが真似するらしい。

ヨーゼフボイスの黒板に書くパフォーマンスはシュタイナーの影響を受けてる。
シュタイナーにしろ、ボイスにしろ、なんであんなふうにスラスラと図形を描いて、しかも
色彩として美しくかけるのか不思議だった。
黒板に描くものに芸術作品として成り立つ美しさがある。

このノートをみたら、そこらへんがちょっとスッキリした。
自分自身で理解するために、さらに他人に伝えるために描く。
雰囲気だけ真似しようとしてもダメだったんだ。

ちなみに日本のシュタイナー教育はなんだかアメリカとはちょっと違ってて、やっぱり
「日本人のシュタイナー教育」になってるんだって。アメリカは超自由だったけど、日本のは
ちょっと細かいって。



さいきん思うのは、小学校とか中学校で「デザイン」の授業ってできないかね。
「美術」ってより、「デザイン」の授業。

デザインを予備校や高校で教える時に、まず「形を簡略化する」「色を絞る」ってことがある
んだけど、普通に小中学校で美術をやってると、この概念を理解するのが難しい。
美術の授業では「色はたくさん使いましょう」「たくさん描きましょう」って、自由であれば
あるほど良しとされているから。

美術の授業で強調されているのは芸術的な感性で、伝達するということについてはあまり触れ
られない。
べつに「デザイン」という名称じゃなくていいけど、「伝達」や「伝える」、「プレゼンテー
ション」する必要性ってのは、この先の時代、より大切な気もするんですがね....。

あー、こういうこと考えてると子供になにかを強要させるツマラナイ大人になっていく気がす
る。













「広告批評展 ひとつの時代の終わりと始まり」



銀座グラフィックギャラリーに「広告批評展 ひとつの時代の終わりと始まり」を観に行った。

gggにしては、展示としての見せかたにこだわりがみえる展覧会だった。
いや、毎回気合い入ってると思うんだけど。
壁に対してやや浮くような形で立体的に貼付けられているキャプションボードや、壁に埋め込
まれたモニター(スピーカー部分はきちんとくり抜かれている)など、展示空間として完成度
が高かった。

1階部分は、30年間ぶんのCMを時代ごとに追うような企画。CMを「読ませる」ような作りで
す。地下は30年間ぶんの広告批評の表紙と実物の展示。説明文はなく、感覚的に楽しむつく
り。頭を使う見せかたと視覚的に楽しむみせかたのバランスも、ひとつの展示としてみた時
に、簡単すぎず難しすぎず、悪くないんじゃないかと思います。

完成度の高い展示空間のおかげで、ほんとうに日本の広告業界ってくだらないってことがよく
わかりました。「広告ってすごいでしょ!時代とともに歩んできたでしょ!」というオーラに
満ち満ちていて、気持ち悪かったです。

ははっ


地下の広告批評30年ぶんの表紙を観ていて、「なんで自分は広告が好きじゃないんだろ
う?」ずっとモヤモヤしてました。

小さい頃から当然ずっとCMはみていたし、記憶に残っているCMもある。
なのに、この広告やコマーシャルに対する嫌悪感はなに?
で、しばらく表紙を観察してた。


創刊当初の広告批評をみていると、たしかに時代とフィットしているというか、時代の空気
みたいなものを含んでいる気がする。きっと自分があの時代の若者だったら買っていたかも
な、と思う。時代をリードしていた。

バブル期に突入してくると、人物が表紙を飾るようになってくる。
芸能人だったり、業界人だったり。時代と並走している。あの時代の盛り上がりをサポートし
てるってカンジかな。
(ところでバブル期って、黒と赤の色使いが多い。女の人は赤いルージュに黒髪、みたいな。
あととんねるずのイメージ。)

95年までは人物が表紙で、96年ころから徐々にグラフィック的なものに変化していってる。
例外的に95年の、オウム真理教の特集の号は人物が表紙ではなかった。

おそらく広告が人々の共通の話題ではなくなったのって、この時期くらいからかなあ。
時代や出来事のほうが先に行っちゃったていうか。

オウムがきっかけなんていうと凡庸だけど、あそこらへんから「広 告 業 界」みたいなも
のが強まってる気がする。第一次世界大戦後のドイツみたいな、どこに向かおうとしてるのか
わからなくて怖いカンジ(別にドイツに詳しくないけど)。
ま、あくまで広告批評の表紙を観たかぎりの印象ですが。


つっても、美術作品にも受け付けられるものとそうでないものがあるように、別に広告にも
素晴らしいものはあると思いますが。
あの業界の、くだらないものをいつまでも褒めそやし、権威化させるあの体質が嫌いなんで
す。










2009/12/08

せっけん




半年くらい前、とあるホテルに泊まったとき、シャンプー、リンスなどのアメニティがロクシ
タンだったことがあった(というか、予約の時点でロクシタンのアメニティになっているプラ
ンをわざわざ選択したって話なんだけど)。

で、そのときにロクシタンの石けんが置いてあって、どうせ1泊しかしないので封を開けずに家
に持ち帰った。貧乏性なので、なんとなく使わないでずっと放置してたんだけど、このあいだ
洗面所の整理がてら、やっと使ってみた。

そしたらすごい使い心地が良かった。
香りとかしっとり感とか、やっぱ普通の石けんとは違うんだな、と。

で、結局、石けんで頭も顔も体も洗うようになった。
いま使ってるのは写真のマリウスファーブルってところの香り付きのやつ。
いわゆるマルセイユ石けんというやつです。
すごい泡立ちがいい。

いままでシャンプーとか洗顔料とかボディーソープとかバラバラに買ってたけど、別に石けん
だけでいいんじゃん!って。石けんひとつで800円以上するので経済的には比較できないんで
すが、ひとつで済むのはお手軽だし、なによりマイルドなのにスッキリするし。

いままで花王や資生堂やユニリーバに騙されてた!って思った。
まあリンス的なものは必要かと思いますが、たぶんこの先、ずっと石けんで頭も顔も体も洗
うと思います。

あとはこれで歯も磨けたら最高なのになー。













「デザインの生態学」


「マクロスF イツワリノウタヒメ」の2回目を観に行きました。
「ヱヴァ破」と同様、《映像体験としてのアニメ映画》になってます。
映像の快楽が味わえます。
こういう最新のアニメが母国語で観れるので、日本人って恵まれてるなあと思います。

上の写真は、半券2枚で貰えるブックマークです。
写真じゃわかりませんが、ブックマークには微妙な光沢感があります。

全部で7種類あって、本当はどれにするかじっくり吟味したかったんですが、さすがにこれを貰
う列に並んでいるのが恥ずかしくて、いちばん無難な「ランカ A(バージョン)」にしまし
た。

いつもなら恥ずかしさなんて微塵も感じないんですが、今回はランカとシェリルの絵を見てい
るだけで顔がニヤけてしまい、ヨダレが垂れそうだったので、なるべく「本当はそんなに欲し
くないんだけど貰えるから貰っとく」的な態度で平静を装いました。

おれのひとつ前に並んでいたメイド喫茶で働いてそうな女性(オシャレでかわいい)は、ブレ
ラ(イケメンキャラ)のブックマークを選んで早々に立ち去ってました。

改めてみると、ランカAを選んで良かったなって思います。








ところで「マクロスF」の冒頭で、「宇宙には上も下もない.....」という台詞が出てきます。
宇宙になぜ上も下もないかというと、それは重力がないからです。

ちょうどいま読んでいる「デザインの生態学」という本は、ギブソンの「生態学的視覚論」の
話から始まります。(ちなみにギブソンは「アフォーダンス」という言葉を造った人です。)

ギブソンは環境のレイアウトを「ミーディアム(媒質)」「サーフェス(表面)」「サブスタ
ンス(物質)」という、3つのレベルにわけて考えていますが、わたしたちの環境のレイアウ
トには「重力」が大きく関わってます。

「重力」、つまり地球への中心へと引きつけられる力があることによって、自然環境は「大
気」→「海水や湖」→「海底や岩や土」という固さのレイヤーを構築しており、それは不変の
レイアウトとして、わたしたちを無意識に拘束しています。

....これ以上は難しくなるので本書を読んでください。

きっと重力は、生物を身体的に拘束するだけではなく、その思考体系にも影響を及ぼしてます
よね。もしも宇宙空間のなかで文明を構築できる生物がいたとしたら、きっと彼らのなか
に「上と下」という概念はなく、平和な社会が築けるかもしれません。

普通に生活していると「わたしたちの周囲に空気などがある」と考えがちですが、ギブソンの
「空気や水はメディアである」という考え方をいちど知ると、むしろ空気や水の満たされた
世界の中でわたしたちがその中を移動している感覚になります。

それはちょうど「ルビンの壷」の絵のように、いままで壷だと思っていたものが人の顔に見え
たときの感覚に近いです。世界の地と図が反転してみえる。
あ、それってデッサンで光や空気、目に見えないものを意識するときと似てる。

魚が水中から釣り上げられたとき、それは人間が水中に落とされたときの感覚と似たようなも
のなのかもしれない。
わたしたちに空気は見えないが、もしかしたら水中にいる魚には空気が見えていて、自分たち
の存在している水こそが見えてないのかも。



そういや死郎先生が考えた、一昨年の情報デザイン学科の芸術コースの入試問題も「重力」が
テーマでした。大学院で「生態学的視覚論」の輪読があったおかげでギブソンについてのくだ
りが理解しやすかったです。ありがとう須永先生!!


マクロスFとギブソンが結びついた、良い日だった。
「デザインの生態学」にはランカのブックマークを挟みたいところだけど、勿体ないので使え
ない。エリクサーやガラスのつるぎをエンディングまで使えないタイプです。












2009/12/06

「ソニアのショッピングマニュアルIII」




ぶれた(写真が)。

ソニアのショッピングマニュアルの第3弾がでたというので、即購入しました。
第1弾のような定番感は薄れ、かなりパーソナルかつマニアックなセレクトになってる気がします。
本人が「これで一つの区切り」と言ってるように、そろそろ打ち止めでもいいのかな、と。


最初はちょっと嫌味な本に感じるかもしれないけど、この本は「モノの物語」を教えてくれる
のがいいカンジです。他にありそうでない本。

「高価だからいい」「雑誌に乗っているからいい」というのではなく、なぜそのモノが良いモ
ノなのか、が著者の視点で書かれているので、説得力があります。

到底手のでない価格のもの(洋服ブラシ5万円など)も記載されているんですが、夢を与えて
くれるということで、若者の消費刺激をイイ感じに煽ってくれます。

わたしたちは使用価値だけでモノを消費しているわけではなく、モノを選択することによって
アイデンティティーを確立してますからね。「こだわりの品」を消費して他人と差異をつけ、
個性化していくんです。





「ソニアのショッピングマニュアル」とボードリヤールの「消費社会の神話と構造」と合わせ
て読むと「消費」について内省的になることうけあいです。
もし自分が大学の講師だったら「ソニアのショッピングマニュアル」と「消費社会の神話と構
造」を読ませてレポートを書かせたいところ。
それほど通じる部分があると思いますよ。

消費社会の神話と構造」は難しめの本ですが、ネットで要約を探したり、自分自身のことに当
てはめながら読めば、感覚的に理解できる本なのでオススメです。